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「ほう、ほんに!みんなある」
「やあ、おいでなさい。わたし、相沢です」
土手に立つている男は房一には見覚えのない男だつた。神原喜作だと聞いてもすぐには誰だか判らなかつたが、やがて、それが彼の借家している鍵屋の分家の当主で、ふだんはどこかの農学校の教師をしていてめつたに帰つたことのないといふ、あの喜作だと思ひあたつた。それにしても、どうしてこんな所へひよつこり姿を現したものだらうか、冬休ででも帰つて来たのだらうか。――
今度帰郷してから庄谷に会ふのは今日が始めてだが、房一のことは庄谷も知り抜いている筈なので、彼の方から祝ひの言葉の一つ位はかけてくれさうな気がしていたのに、房一はあてが外れたやうに感じて、少なからず手持無沙汰だつた。だが、庄谷は知らないどころではなかつた。たゞ彼には房一が医者になつたことが何となく気に喰はないのである。庄谷の眼からすれば、以前からさう手軽るに親類顔をしてもらひたくないと思つていた家の薄汚い息子でしかない房一が、今突然医者として現はれて来たつて、それを認める気にはなれなかつた。この善良で小柄な、小柄なくせに横柄な男は、頭のてつぺんから足のさきまで河原町の者だつた。彼はこの町に生れて、家業である雑貨店を継いだ。それからもう何十年、店の入口の障子は硝子戸に変り、商品もランプの代りに電球を置くやうになつた。だが、いつたいそれがどういふ変化だと云ふのだらう。何もかも大事なことは変つてはいなかつた。もう十年来どこの家でも戸数割の納め高は同じであつた。彼の家の前を通る大抵の人は彼より少い戸数割を納めていた。だから、彼はそこで会ふ大抵の人に、「あン」と云つて一寸頭を動かせばよかつた。無遠慮にぢろぢろ通りがかりの人を眺める癖を改めなくともよかつた。それは彼のこれまでの生涯をつゞいた。これからだつて同じことだとしか思はれない。何もかもちやんと決まつていて、疑ふこともなければ、案ずることもない。だから、それに当てはまらないことが目の前に現れても、それは初めから無いに等しい。彼を支へている考へがあるとすれば、ざつとかういふ考へだつた。
すさまじい怒気のやうなものが、房一のあらゆる部分に燃え立ち、彼のいかついむくれ上つた肩は二倍も大きくなつて見えた。それに圧倒されたものか、物音は止んで、房一が何かしきりと云つているのが聞えたが、間もなく二三人がごそごそ土手を降りて行つた。
「一体どうしたというのだ。」
けれども、私がたいがい徹夜で仕事しており、深夜に入浴したがることを知っているので、気の毒がって、たいてくれる。八時ごろ四十五度ぐらいにしておくと、石の浴槽は冬でも却々なかなか冷却せず、十二時ごろは四十一二度、二時三時でも、三十八度ぐらいである。私は深夜に二度入浴して、頭を休め、冷えた全身をあたためることができる。私はタンサンガスに弱く、たちまち頭がしびれるので、せっかく炭火で室内をあたためても、窓をあけてガスをだすから、常に寒い思いをしていなければならないのである。
徳次は河船頭であつた。明け方早く、一帯に白い朝靄の立ちこめた川面のどこか一点にぽつんとした黒い点が現れ、しだいに大きく人の形であることが認められるやうになると、それがまるで宙に浮いたやうに思ひもよらぬ高さで突立つているのを見た人は、不審に感じながらぢつと眼をこらすだらう。間もなく、積荷で盛上つた黒い船体が見えて来ると、その上に足を踏ん張つて仁王立ちになり、太い棹をいくらか斜に構へ持つた徳次が、河原町の路上をふらついている時の、いくらか赤鼻の、きよろりとした顔とはまるで人がちがつて見えるほど、きつとした引きしまつた面持で、睨みつけるやうに前方に目を配つているのを認めるだらう。水に隠れている円つこい岩がある、さうかと思ふと、流れの加減で船がそつちに寄るといふよりは、先方からすつと近づいて来るかと見えるやうな、鼻先だけちよつぴり水面に出した、だが頑固な岩がある。こいつらを、徳次はあの長い棹で突張り退けるのだ。徳次はもうこんな岩の在りかもその性質もすつかりのみこんでいる。だが、水量が減つたり増えたりするにつれて、この岩どもは気心のしれない女よりもなほ厄介な代物になる。おまけに、広い川の中でも本流は時々気まゝに路を変へるのだ。そいつに乗つていないかぎりはいつまでたつても河口へ着きはしない。
「永いこつてすよ」――そのきつぱりとし、そのためにかへつて本当の永さを、あのつきることのない、何かしらにみちた前方の日々を現しているその云ひ方が、ひどく房一の頭に残つていた。
坐につくとすぐ固苦しい挨拶をはじめた房一に向つて、その気重い調子を払ひのけでもするやうに、老医師の正文は口早やに云つた。
小谷は相手にされなかつたやうに感じてちよつと顔をしかめた。が、しばらくすると又声をかけた。
かういふ場合によく現れているやうに、彼等は、房一が農家の出であるといふことで非常な気易さを感じているらしかつた。同時に房一自身にとつても、彼等を診察したり、その苦しげな或ひは面白げな話に耳を傾けたりするとき、非常に馴染深い或る物、彼の存在の奥深くに響き答へる或る物が感じられるのだつた。そして、その或る物は単に彼等農夫との間ばかりでなく、河原町全体、この懶ものうげな町の様子や、温かげに見えて手を入れると冷い河の水流や、雑木の目立つ山々や、銅山の廃坑の赤い土肌や、それら全体の中から房一の見つけているもの、そして、その或る物は目にふれるや否や、ちやうど飼ひ慣らした犬が主人を見つけて一散に飛んで来る、そんな悦ばしげな感情をもつて房一の胸にとびこみ、彼の中に柔い落ち着きと平和を築き上げて行くやうであつた。
口を切つたものの房一は頭の中でとまどつていた。あんなに考へていた言葉が今急にどこかへ消えてしまひ、何を云ひ出したのか後をどう云つたものか判らなくなつてしまひさうに感じた。彼はかすかに汗ばみ、そのどちらかと云へば醜いむくれ上つた眉肉や厚い唇が力味を帯び紅ばんで来た。