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男はうむを云はせなかつた。
房一は苦笑した。
「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」
来客の間にほつと寛くつろいだ空気が流れ、直造が袴をさばいて立ち上らうとした時だつた。
と、房一は机の上に虫の卵の形を書いてみせた。
済んでもまだ、彼の顔は何かしら当惑した、おつかなびつくりといつた表情を浮かべていた。それは何だか、嫌な仕事をさせられた子供のよくやるやうな表情だつた。突然、盛子は了解した。そして、笑ひ出した。――このいかつい、頑丈な、むくむくした房一の中には、こんなに気の弱い、やさしい、何だか可愛げなものがあるのだつた。それは全く、彼には不似合なものだつた。それだけに、可笑をかしみのある、又親しい――。
かりるに当って女房が挨拶に行ったら、温泉のぬるいことを例外なく念を押して、
黒光りのする戸棚の蔭からびつくりしたやうな義母の円つこい眼がのぞくと、
男は始めにびつくりさせられて、今さう聞くと多少のみこめて来た様子であつた。どこも悪くないと云はれたこともうれしかつたらしい。房一はその腕をひつぱつて顕微鏡の前につれて行き男にのぞかせた。
「それぢや、向ふの座敷へ行つて少し休みませうか」
練吉は意外なことを耳にしたといふやうにちよつと房一を眺めたが、熱心に聞いていた。
それは背広姿に、遠目にもはつきりと判る緑色のソフトをかぶつた男であつた。